空みたこと花

冬と乾季はじめました

すわるたつ

 

 『実践!! 瞑想の学校』 刊行記念講演会
 藤田一照師×プラユキ・ナラテボー師 対談 @神保町101ビル

 

 

 昨春、始発で葉山のご自宅まで出かけ参加した一照師(曹洞宗)の坐禅会は、坐るまでの過程こそ本番とでもいうような独特のもので、日常感覚の異化という点で他になく得がたい経験をさせてもらった。

 

 プラユキ師のスカトー寺(タイ東北部)滞在は、バンコク移住後のめくるめくタイ生活のなかでもハイライトの一つとなっている。

 

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 このお二人の対談とあっては、お話の中身に関わらず行く価値アリとせざるを得ない。とはいえ交わされるお話の内容そのものは、期待の主な対象から外れていた、と書けば傍目には失礼な物言いに映るのかもしれない。けれど正直なところそこで何が話されるにしろ、主観的に受けとるメッセージが《実践こそ肝要》以外の何かになるとは思えなかったし、具体的な水準では何が話されるのか、あまりにも予想がつかなかった。
 ともあれこのお二人は、ぼくの知る仏教僧のなかでは飛び抜けてロジカルかつプラクティカルな言葉をもつかたで、抹香臭い話に終わらないことだけはハッキリしていた。

 

 この意味では、ご両人がただ向き合って黙っているだけの二時間だったとしても、ぼくとしては極上の場に立ち会える経験となったろう。むしろただ見つめ合っているだけの夜になったらたまらない。ああ自分は行為に加担せず、壁チラのみでひたすら萌えるというBL心性の一典型ってこれなのかと、無闇に合点がいった。無明である。もちろんそうはならなかったざんねん。いや。

 というわけで、できるだけご両人のお顔を終始目に入れていたかったので、満員の会場の隅で一人だけずっと立って聴いていた。午前2時起きの日の夜イベントだったので、椅子に座ったら舟を漕ぎ出す自信に満ちていたというのもある。
 坐らない試みの夜、わるくなかった。


 
 脊髄模型を用いた解剖学的講義や、野口体操の実践という理論的基底のもと皆で体をゆらゆらさせる一照師の坐禅会は、いつまでも坐らないにもかかわらず頭ではなく全身で語りの骨子を納得させられる不思議なものだ。それは神保町に建つオフィスビル内の会議室で催された対談企画でさえ一貫されていて、まず参加者同士のアイスブレーキングから始まった。講演会なのに解凍しちゃうのだ。このあたり、地味にカリフォルニアン・イデオロギーも入っているのが感じられ興味深い。

 マインドフルネス流行の震源である米西海岸文化の思想的根幹に東海岸Ivy Leagueの余韻があり、17年の滞米経験(マサチューセッツ州ヴァレー禅堂)をもつ一照師の語り口にこの余韻が響くことは、彼を他の禅僧と大きく分けている。というあたりはどのていど一照フォロワーのあいだでは共有されているのだろう、など思ったり。

  
 不思議といえば、タイと日本を行き来する時間のなかつくづく不思議に感じることのひとつに、三拝への違和感がある。
 タイのお寺では仏法僧に三拝する。これは肘と額を床につける深い礼拝をくり返す営みで、タイでは問題なくごく自然にできる。しかしたとえば日本人たちに囲まれた東京のタイ式のお寺では、正直いって不自然さしか感じない。礼儀として行うにしろ、違和感は拭いがたい。

 こうして日本語をつかう思考そのものが、属す社会の反映の一形態であるように、所作や仕草もまた周囲の環境や環境にかたちづくられた文化の引きずる文脈に影響され、無自覚のうちに「わたし」の方向性を規定する。坐禅の根幹にお仕着せの日常性からの一時離脱、習慣性の解除がまずあるとするなら、意識のうちで決断的に坐るだけでは足りないのだ、という一照師の指導はだから、プラユキ師の手動瞑想(チャルン・サティー, Dynamic Meditation)とこの無自覚的思考をめぐる圏域で共鳴する。要は意識外の海原に浮遊する《気づき》の機縁にどう呼びかけ、どう導くかという大系。

 

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 いつまでも対談の中身に入らないのは、講演の内容は単行本化されるからネットなどであまり触れないでくれ、とその日の終わり主催のかたから念を押されたからで、だから言わない。いちばんたいせつなことは目に見えない。きらきら。

 とはいえ少しだけ。その場でなされた板書は、プラユキ師の方法論的語りを一照師が脊髄反射的に要点整理したもので、文字化されてみればもっぱら仏教用語により腑分けされたそれらは換骨奪胎され切って、たとえば英語に逐語訳されても明解に通用しそうなあたりがこのお二人のアンサンブルならでは、といったところかな。

 それから慈悲の瞑想をめぐる一照師の屈託は、ご自身の発話する言葉に対する繊細さと鋭さが感じられて良い一幕だった。「効果があるからやるべきとは言えない」というそれをぼくの理解可能な範囲まで堕として言うならたぶん、この不完全な自己から放たれる綺麗すぎる言葉の群れが必然的にもたらすデモーニッシュな暗がりへの看過のことを言っている。そしてこの卓見の端源が、もし一照師による身体を通した全体性の調律への探求と関わりがあるならそれはとても興味の惹かれることで、関わりはたぶんある。


 ところですでに大入りだった会議室に入って、初めに目が合ったのは最後部で待機するプラユキ師で、挨拶しに近づくと開口一番「よくきた」とおっしゃったのが内心によく響いた。

 よく響いたのは、このとき空耳された「よく生きた」と本来の「よくきた」の孕む距離と時間をめぐる意味性が互いを刺激し、再帰的に聴覚野で増幅され反響し合ったゆえであり、月が二つある世界のことを十代のある時期よく絵に描いたことをふと先日ふと思い出したのだけれどこの場合、緑の月はご両人のどちらで赤い月はどちらかなどと思考軸の複数展開される白昼夢をこの一瞬に体験したからでもあり、このように東京滞在は以前と比べどこか夢のように時が過ぎるようになっている。
 もちろんこれが夢だとて、なにか問題があるとも思えない。
 

 


イベント公式HP:

http://www.samgha.co.jp/products/spcontents/spsamghaclub33.html