空みたこと花

冬と乾季はじめました

おくれる

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 15歳前後のころアトピーがひどくなって行った京橋の東洋医の「きみは気詰まりなんだよ」というひと言を、いまでもよくおもいだす。首筋のリンパのあたりで気が塞がる、みたいに指先をぼくの首筋へ当て老医師は説明してくれた。ひどい患部にはステロイド剤塗布の一般病院の医師や、ひたすらアレルゲンの排除一点張りな食事制限系医師らとは、患者へ向かう佇まいも言葉の質もまるで異なる風は新鮮だった。


 さてなにを書こうと思って瞬時に想起されたのが、今朝はなぜかこの東洋医の言葉で、その場で「気の塞がり」を精神の「気詰まり」との連環で当時の自分は受けとり、子どもながらに深く納得し、感心した。そしてこの気の塞がりと、常々自覚される発語の「遅れ」には通底するものがある、と感じられる朝。
 この私という現象を、肌と自意識を輪郭とする閉鎖系のくくりでいくら発想してみたところで、皮膚呼吸や感覚把握により体は外気へ通じていて、意識を枠づける言葉は生後インストールされた差異の大系に過ぎないから、心身症的徴候を「身体」なり「精神」なりのいずれかへ帰して済ませる態度はおのずと空疎へ嵌まり込む。了解可能なフレームへ感覚対象を落とし込めれば何かが免罪される気になるという、外界に対する無自覚なおもねりや過度の依存が不自然な「形」を生む。自身の場合は成人までのアトピーであり、おそらく現存する局所的な凝りであったりもするそれが、人により自傷行為であったり摂食障害、アルコール薬物やセックス依存であったりするのだろう。(これらの症候に苦しむ人々が、ことごとく心身症的というのではなく)



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 こういう思考の連なりは、ある種のひとからみれば蒙昧さの証にしか見えないはずだが、それはそれで科学依存への無意識の不安が映す己らの影でしかない。このとき彼や彼女は自らの鏡像を見るためぼくを見る。けっきょく正論の拠ってたつ社会そのものが規範的にも基盤的にも揺らぐとき、その揺れを等閑視する「いい人」たちはアテにならない。してはいけない。自分の直感こそ正義という幼児性を裏返しに抱えているのが科学信者というもので、自律的に考える言葉をもたない関係性を世間という。

 どんどん遅れる。溜まりこむ。
 巻き戻す、追いつく、はそれ自体がどちらもひとつの別様で、字面を照らせばあらゆる瞬間、それらは逐一ファンタジーを生んでいく。巻き戻せないし、追いつけない。つまりはそういう時を生きている。という選択であれば今できる。それこそはかけがえのない恵みだな、とは素朴におもえる。感謝しつつ、為せば良いというリアルを生きてあれたらいい。鏡面にきらめく光、そこに宿る形を意志という。よく見つめ、よく映す、呼吸する。その連なりには居座らない。痕跡はふと振り返るものとしてあればいい。散歩の足あともときには描く。それはそれで発語なんだよ。いずれどこかへ、とどけばいい。

 

  

(※写真は今年9月インド北部チベットザンスカール・ラダックにて撮影)