空みたこと花

冬と乾季はじめました

大晦日の心地

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 ラジオと昭和天皇といえば、あのひび割れた玉音放送が流れた日の抜けるような青空とか、煤けた国民服を着た老人やもんぺを履いた婦人の正座して肩を震わせる後ろ姿を脳裡に想い浮かべるひとは、きっと今なお多いだろう。言うまでもなくこのときその記憶の有無は、その日すでに生まれていたか否かをまるで問わない。

 

 ラジオと昭和天皇、の語の並びからもう一つ、個人的に呼び起こされる記憶がある。それは白々とした真冬の空気に包みこまれた1989年1月7日の朝であり、開店準備中のそば屋の薄く湯気が漏れだすアルミサッシの窓越しに、3段ギアのついた深緑色の自転車のサドルに座ってそのラジオ放送を路上から聴いていた。いまはチェーン店の看板ばかりが並ぶ商店街のただなかで、その時間帯はどこも開店前で人はおらず信号もない道をいつも駆け抜けていたはずなのに、その窓のアルミサッシの白銀色を静止画像として明瞭に覚えている。流れてくるアナウンサーの声色に、いつもの交通情報や天気予報などとは異なる緊迫感を聴きとって、漕ぐ足を止めざるを得なかったのだとおもう。
 片足を地につけて、しばらくその伝えるところを理解しようと努めるあいだ、ペダルに置いたままのもう片方の足の膝頭は暗い藍色で、デニム地にも思えるけれどその視覚記憶は、半ばぼやけているから後補の偽物かもしれない。

 

 

 「玉音放送の流れた時間」は、たとえば2011年3月11日や2001年9月11日よりもはるかに今日の「日本人」そのものを画定する。だからその8月の正午から数十年のちに生まれた人間にも、その記憶は高い精度で刷り込まれる。やや大げさに言えばそうして現代日本語を構成する必須要素とさえ呼べるかもしれないあの時間に比べ、ならば今日はどうだろうと考える。2019年4月30日の記憶はおそらく、そのようには日本人を構成しない。クリスマスを祝う日本の都市の派手派手しい光景を前にして、それが大正天皇の命日であることを想起する者は稀だろう。崩御を伴わない「時代の終わり」は一般に何世紀ぶりかも知られることなく、文字通りに時代感覚をも交換可能な記号にも近くフラットな、平板なものへと成就させる。
 漸うにして、平らかに成ったのだ。

 

 それゆえ1989年1月7日の記憶もまた日本人の記憶ではなく、ぼくの記憶だ。と考える。個人の記憶にすぎないから、たとえば英語での想起を試みても齟齬は起きない。玉音の記憶は英語にならない。
 その日、今井先生はあきらかにうろたえていた。教室にやってきたはじめから調子が重く、目線はいつもより中空を泳いでいた。きょうは気をつけて帰ってくれ。しばらく何が起こるか、大人にもわからない。今井先生のそういうつぶやきに、ついさっきそば屋で耳にしたラジオ音声の緊迫度をきっとこの耳は重ねていただろう。「大人の世界」の完璧さは、そのように崩れだしたのだと今はおもえる。86年春のある曇り空のもと、降り注いだ小雨を恐れる大人たち。延々と犠牲者名を並べ続ける、85年夏のテレビ画面。チェルノブイリ御巣鷹山はそのような調子はずれの連環のうちに特異点を形成し、言分け上の結節点となって場としての脳の裡へと埋め込まれる。思考や意識はこの裡に映しだされる像であり、像はその映りでる地の画域を感覚せず認識できない。

 


 

 今井先生は、塾の国語の先生だった。当時小学校の担任は津田という暴力教師で、この男の授業は醜悪で聞くに耐えずしかし美術音楽以外はすべて津田の担任だったから、この時期学校の授業は眼前する現象へ等閑符を打つ果てしなき修行となった。ところが塾の講師たちは今考えれば皆まだ20代だったろうけれど各々に個性的で、どの科目も話が面白かったのは僥倖だった。受験戦争に勝ち抜くというような抑圧はまるで感じず、学力別で一番下のクラスに入ってただ面白いから頭を巡らせ問題を解き進めるうち、あれよあれよと二十ほどに分かれたクラスの一番上まで順に上げられ、やがて隣の市の選抜クラスに通わされ、週末には全国上位の子が集まる東京の教室まで遠征させられた。学区が町内会の広さしかない小学校の子どもの常識では電車に乗ることさえ非日常の冒険で、そのようにして出かける都心の光景は完全にドラクエやFF、ゼルダの伝説における「あたらしいまち」として展開された。その後の歳月のなかで様相と温度を都度都度一変させてきた池袋や御茶ノ水の街なかに、当時と変わらない姿でサンシャインやニコライ堂が今も建つことは、だからどうにもやや不自然に感じられる。

 

 藝大の学部から大学院へと上がる頃、中学高校時代に通りつづけたJR池袋駅の南口地下改札を出たあたりを、たまたま当時の恋人と歩いていたら、今井先生らしき人影とすれ違った。ハッと気づいて雑踏のなか追いかけると、その人影はやはり今井先生だった。名乗って塾に通ったことを伝えるとすぐに憶いだしてくれたけれど、先生のほうがきっと驚いたろうと思う。なにしろおかっぱ頭の小学生だった子供が突如、20代半ばの容姿をまとい目前に現れたのだ。先にも書いたが受験戦争を意識できず緊張感に欠けた子どもだったため、受験日直前には相対的に成績が落ちていて、ラストスパートに入った他の子とは真逆に同じペースでゲームもすれば学校の友達とも遊ぶ「ダメ」な生徒だった。そういう子はたぶん記憶にも残りやすかったろうし、最上位時に設定された第一志望校には落ちると思われていたはずだ。そもそも、学校の友達はほとんどが同じ公立中学へ通えるのだ。それを羨ましく思う気持ちは決して小さくなかったから、落ちれば親はがっかりしたろうが、自分的に問題は何もなかった。

 


 

 こうした緊張感の欠落という点では藝大受験時も変わらず、デッサン試験の当日朝にぼんやりしメガネを尻で踏み破壊した。では生来プレッシャーと縁のない人間かといえばそれも違って、抑圧をかけていくポイントでは自滅寸前まで己を押し潰していくために、おそらく現実的に幾度か死にかけてきた。この数年で明確に自覚されたのは、要するに真性のマゾで変態なのだということで、変態だから力むポイントが健常者とは自ずとズレるし、マゾだからいったん死線を超えないことには満足さえ感じられない。

 十数年ぶりに今井先生と会った際には握手して別れたけれど、その握手はやけに力が入っていて、先生の体温をしっかり感じた。奥様らしき人を連れていて、そうかあの先生たちのあの日々にもまた私生活はあり、人生を生きる過程の一つだったのだなと、初めて思った。塾に通っていた時分のぼくにとって、大人は完璧であらかじめ完成されている以上、過程など想定不要だったのだ。

 同じ頃、実家近くで暴力教師の津田ともすれ違ったことがある。小学生時にくらべその体躯は圧倒的に縮んで映り、彼が教室で撒き散らしていた恐怖のちっぽけさに初めて気づいて一瞬目まいに襲われた。声をかける気にはならなかったし、今なら殴り返せるなと思ったけれどそれ以上には感情を費やす価値も感じなかった。

 

  タイ王国プミポン先王崩御当時の、昭和天皇崩御をめぐる想起ツイート:

  https://twitter.com/pherim/status/785502037093986306

 

 昭和天皇崩御からしばらくして、葬儀に関連する国民の祭日が設定された。平日が休みとなり、学校の友だち幾人かと連れだって、人も疎らなサンシャイン・シティへ出かけたのを覚えている。それが遊園地でも映画館でもなく池袋だった理由はもう定かでないのだけれど、切符の買い方すらおぼつかない友人たちを率い都内へと連れて行けること自体が誇らしかったし、一緒に行ったグループのひとりである稲葉くんが、とても楽しそうに笑っていたのを覚えている。稲葉くんは学年で一番足が早かったけれどそれを鼻にかけることのない物静かな子で、仲の良い双子の妹がいて、この兄妹の醸す落ち着いた独特の雰囲気がとても好きだった。

 

 昭和天皇葬儀の日に、戦争犯罪の容疑をかけられた者らの怨念積もる巣鴨プリズン跡地で遊ぶ子どもというのは世の末感にもほどがある。本来は人で溢れるべき設計の巨大な内部空間はあまりにも閑散としており、かつ買い物に興じる能力も乏しかったため立体型鬼ごっこの凶行に及んだのをいま思いだしたが、そもこの文章を書き始めるまで、今井先生や稲葉くんの記憶がきょう蘇るとは思ってもいなかったし、こういう流れになるとも思っていなかった。

 稲葉兄妹に対する「とても好き」は、恋愛感情とか濃い友情を欲するそれとも異なる「好き」で、そこからいま唐突に想い起こされたのは、大改装の前も後もなぜか東博東洋館1階展示室右壁に固定展示されているクシャーナ朝石仏の鋭い彫り込みが生む温和な面影だ。その曲線美はまぎれもなく極上のエロスをともなうけれど勃起を誘うそれではなく、無音の行間こそに意味を読み取らせるような今井先生の語り口にも通じる、事象の一回性がもつありえなさを感得させる。それらが現前するうちはあまりにもありふれて感じられ、その唯一性に気づくことは稀なのだが、目前から失われ初めてそのありがたさが感覚される。次の一行に何が現象するのかわからない、というこの不可知性はだから、通り過ぎるまでそのありえなさに気づけないこれら事象の由来を映し返すうえでは大切な、経験の本質に触れようとする態度そのものへと直結する。わかってはならないのだ。たやすくは。

 

 

 昨晩、夢に初めて今上天皇が登場された。教室の壇上で、語る順序を違えたことをあの丁寧きわまる口調で謝りだした彼としばらく視線が合った。皇叔父にあたる三笠宮エジプト考古学講義は藝大生のころ幾度か受講したことがあり、恩賜上野公園を訪れた皇太子とは目を合わせたことがあるから、この夢もまた実体験と脳裡の編みだす表現物とは言えるのだろう。そういえば半月ほど前、ある同い歳のタイ人女性監督について書きあぐねていたら彼女の撮った不可思議な映画のうちにいる夢をみて、覚醒後には不思議にスッと筆が走った。Suppressionの字面通りに抑圧され押し出される力がこれらの文字を編む点で、この文章の羅列もまた夢から連なる一過程であるのだろうし、そのようにして現に映し返されるものをできるかぎり精確に映し返していくことは、この自分が欲動的ないし社会的に整形する事どもにもまして、これら現象そのものの本覚なのだと直観される。