空みたこと花

冬と乾季はじめました

Dog saves.

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 なにもなくて、すこしおどろく。けさは。

 晴れきってもいない。脳漿がうけている、後方への引力に、想念が巻き込まれていく。ことばがからめとられていく、のを感覚する。

 様態としての個にとりつく縞も、ここでは遠のく。ただ、そういうものとして作動する指先の、かすかな抑圧。電子の記号へと変換される弱い力動の、十の光脈。二重の圧力。小雨を降らせる曇天の、あるいは空。

 

 

 娘、が水中へ落ちる危険、を回避するため、服を引っぱる。次。娘の安全を確保し、娘が水辺へ向かった目的を確認する。テニスボール。次。水中へ走り、拾いあげ、戻る。

 これらすべての段階を、順に為し遂げている、ように見える。ヒト言語を介さないロジカル思考、の可能性に想いを馳せる。ところが。


 虚脱感におそわれる、ことができる。底なしの孤独にとらわれる、ことができる。ということは案外、大事な資産でもある。

 なぜならそれらは、本来そこにあるべきでないものではなく、それらから目を背けた日常を仮構することこそは、人格が人格として機能する初発の条件であるからだ。世界を仮構することなしに、人は寸刻たりとも生きられない。内なる意識と外なる世界を照らし合わせ、己のコードに取り込むことで現実は時々生成され、刻々と損なわれる。失われる。

 失われる。忘れがちだけれど、忘れた瞬間、そこにはのっぺりとして平板な「社会」が生まれる。虚無も痛みもむやみに緩和された、ふわふわとした幸福、のようなものへの期待と予感、への着床。綿胞子のように舞い降り、触肢をひろげ、根をおろす。わたしがそこに、仮構される。
 それだけの、ことばの連続。

 陸地なき世界にしか、岸辺を持たず神さながらに無限定な最高の真理が宿らぬ以上、風下の岸に打ちつけられる恥辱よりは、荒れ狂う無限界に果てるほうがましだ。

 からめとられてゆく。一瞬で。けれどそうして刻まれるときは、単に慣れているというだけの、何の根拠もなくとくに守りたいものでもないはずの、つまりは反映された仮構にすぎない。

 

 よくみると、娘の目指す方向と、フレーム外から現れるボールの位置は関係がない。ボールは川面の波を切り、岸の石に対し静止している。流れていない。よくみる。はじめ犬は、娘を見ていない。

 犬が見あげる方角で、ボールを置いた誰かが合図する。想像する。反映し合う世界。


 それはもうどうしようもなく、変わりゆく。とどまることもまた変化の一つでしかなく、とどまる流れそのものがあたりを変えていく。この瞬間、ここにいるもの。7秒前、ここにいたもの。

 ときにより、渦は位置や大きさを変えていく。水面に生じる描線の一つ一つは、網膜へ瞬時に固定され、瞬時に死んでいく。この光景が網膜へ映りでるそれであるように、あたりの流れが生起させる渦としてここはある。

 死んだことばを積み上げる必然を、実のところ君はもたない。もつと感覚する瞬間があるとして、それはまた瞬時に姿を変える流れの一縷だ。ときを生かす、だけしかない。