空みたこと花

冬と乾季はじめました

釜石・箱崎町にて、とりとめもなく。

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 ※ちょうど十年前のきょう書いた文章です。クローズドの場へ挙げていたものをタイトル含めそのまま転載します。

 

 

 もしネット環境があれば、いろいろ書くこともできるかな。と思っていつ壊れてもいいノートPCを持参したけれど、案外そういう気分にはならないものでした。いろいろ考えるには考えているのだろうけど、それらがまとまりをみせる気配もない様子。


 写真(上)はしばらく前の昼食です。遠野の駅前からまっすぐ伸びる通りで入った食堂の、「とおのラーメン」。麺によもぎが入って緑色。山菜おいしかった。

 写っている新聞は岩手日報。写真中の女性は76歳のかたで、60歳の長女が震災で行方不明になったそうです。娘さんは、30年間生花教室を切り盛りしてきたらしく。以来お母様であるこの女性は、お花や好みだった食べ物などを供えに、海辺へ通うのが日常に。


 この新聞一面を目にしたとき、写真の背景に写り込んでいる工事現場やクレーン車の配置に「あれっ?」って思ったんですね。記事を読み疑問はすぐに解明されました。この一面写真の撮影時、実はわたし、うしろの工事現場のちょうど反対側で、瓦礫と格闘していたのです。だから見覚えがあったんですね。

 場所は釜石の北のはずれ、箱崎町という、昔の小さな漁村集落がそのまま町になったような地域の海沿いです。


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 この一帯の、南北数百kmに渡る沿岸部の町がみなそうであるように、箱崎町もまた深刻な被害を受けています。深刻という言葉ではまったく足りないかもしれません。河口部の小さな扇状地に開けた町中心部は、壊滅。

 しかも震災直後の住民が軒並み避難した隙を狙って、組織的な窃盗団が町を襲いました。そのため集落につながる唯一の車道が通るトンネルを、住民たちが自力で封鎖。この封鎖のため、各種の支援団体が町に入るのも遅れたそうで。もともとよそ者は嫌う土地であろううえに、被災に窃盗被害と不幸が重なれば、見ず知らずの団体など誰であれ容易には受け入れられるはずもなかったことでしょう。

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 この写真は昨年3月末の箱崎の様子を、現地のかたが撮影したもの。ネット上より拝借しました。瓦礫のあらかたは、すでに町の特定区画に高さ10m近い山脈群となって集められています。現在ボランティアの手で撤去されているのは、人の手が必要な細かい部分。側溝であるとか残った建造物の周辺であるとか。


 自分が来たのは11ヶ月目の真冬です。当初の険悪さはすでになく、ボランティアの存在は土地のみなさんにも慣れ親しまれ、気軽に声をかけ合える関係になっていました。わたしなど、すれ違いざまに挨拶なんてするはずもない凡庸なベッドタウンに育ってきたので、簡単に声をかけ合えてしまえることそのものにじわじわと感動を覚えたり。

 最低気温は零下を余裕で下回っているので、瓦礫撤去といっても地べたの瓦礫の大半は凍りついていて、場合によっては大型の鉄製ハンマーやつるはし、ピッケルなんかを使って氷ごと弱ったコンクリートをぶち壊したりします。この冬は例年より寒いらしく、滞在中のある晩は-20℃を下回っていたことを、翌朝のニュースで耳にしたり。

 効率だけを考えれば、氷が溶ける春を待てばいいだけの話なんですけどね。でも大事なのは全然そういうことじゃないんです。そこらへんは、来てみて初めてわかりました。少なくともこうした草の根の活動にまで作業効率を求めるような時期は、もうとっくに過ぎているのですね。そんなことよりその場にひとがいて、関係性の編み目が動いていることに、たぶんとても大きな意味があります。

 瓦礫の中には、生活感がただよってくるものもよく混じっています。スカーフや毛糸の手袋。家具や電気製品の一部。ガラス製品の多くは割れたうえにカドがとれ、丸石のようになっています。よく浜辺で見かけるものより、サイズはずっと大きいのだけれど。あと漁村ゆえか、発泡スチロールの破片がやたらに目立ちます。それに食器の一部や、なにかの蓋。人形の一部。ミニカー。色鮮やかなプラスチックの、幼児向けブロック。自分が子供のときに遊んでいたものと同じです。多くの家が流されてしまった以上、元の持ち主だった子は、おそらくこの町にはもういないのでしょう。どこかで元気でいることを祈るばかりです。


 そんな作業のかたわらで、岸辺で海藻採りを続けるおばあちゃんの二人組が、実はずっと気になっていました。そうしたら活動歴の長いボランティアのかたが、頭巾を巻いたおばあちゃんたちとなにやら長々と話し込み始め、なんと彼女たちからバケツ一杯のわかめを貰ってきてくれたのです。わたしたちのもとまでやってきたおばあちゃんお二人は、「これ食べてまたがんばって!」と満面の笑み。皺だらけの愛らしいお顔が、笑うあいだは皺だけになっていました。

 ボランティア作業の休憩所として付近の家屋を貸してくれているかたのご協力で、昼食の時間にはこのわかめをメインとした汁物が提供されるという僥倖。生と乾燥の違いなのかな。それ以外に、とくに理由って思い当たらないのだけど。でもほんとうにびっくりするくらい、おいしかった。





※十年前の当時はクローズド(非公開)のSNSでいろいろ書いていて、震災関連についてももっと労力や時間をかけたものや、より気合が入ったものは他にも色々あるけれど、サッと書き上がった意外性込みでこの日記はよく書けた感がありました。一部は遠野図書館で打っていたはず。地誌コーナーには柳田國男関連充実の他、貞観地震関連の毛筆古文書なども。内陸で被害の少なかった遠野のボランティアセンターへ初めは逗留、のち旅館へ移動した頃に書いてます。遠野から海辺の各地へ毎朝ボランティア運搬バスが出ていたのです。旅館は建設会社ほぼ貸し切り状態で、ボランティアへ来たと言ったとたん女将の表情が変わって色々世話を焼きだしてくれたのが印象深く土木作業員の面々とご一緒する共同浴場とか威勢よかった。

2/18追記: 突然なぜ転載する気になったかの経緯ツイートです。→https://twitter.com/pherim/status/1493797491682463747 (連続ツイート形式で、もうしばらく不定期に続ける予定です)